“寺山修司没後40年記念公演『三上博史 歌劇』

INTERVIEW

MIKAMI HIROSHI'S INTERVIEW

本作の主演・三上博史にインタビュー。
作品にかける想いや、寺山修司とのこれまでを辿る。

寺山修司記念館でライブを上演し続けている想いは?


 青森県三沢市に記念館があるということで、機会をいただいたことが第1です。そこから毎年伺うようになって、もう10年近くやっています。この2、3年は配信もやっています。当初は寺山修司さんの言葉を伝えるということが趣旨で、朗読が主でした。鍵盤奏者のエミ・エレオノーラさんとの掛け合いで朗読をやっていたんです。ただ寺山さんの活動は多岐にわたっていて、作詞、多くの歌手の皆さんに歌詞を提供していて、これを歌ってみようか、これも歌ってみたいなというようなところから歌が少しずつ増えていって。今年は寺山さんの没後40年でもあったので、(プロデューサーや会場に)無理を言い、バンドを初めて連れて、音楽中心のライブをやらせていただきました。
 回を重ねるごとに、地元のアーティストや小説家の友達などもできて、いろいろと世界も広がって、三沢や周辺の八戸など、この土地が身近になってきています。もちろん寺山さんが生まれた街ですから、ここが原点であるのと同時に、何かの震源地とすることは意味のあることだと思ってますから、これからも続けていきたいです。

寺山修司さんの魅力は?


 寺山さんの書かれた言葉は、酸いも甘いも知っている大人の耳に届くものである一方、セックスを知らないような清廉な少女が読んでも何か響く。そんなふうに入り口がいっぱいあるんです。それがすごさであり、古くならない理由ですね。一番のポイントは、寺山さんは嘘つきなんですよ(笑)。嘘つきというと語弊があるように聞こえるかもしれませんが、寺山さんにとって嘘は想像力という言葉と同義語、イコール。想像力に翼を生やすための道具が嘘でもあるんです。その辺が潔いというか凄まじいというか。そこまで嘘をつける人はいないと僕は思っています。さらにすごいのは、虚構性のある世界にもしっかりロジックがあって、決着をつけられるところですね。

三上さんにとっての寺山さんとは?


 僕の芸術性? 僕が育っていくことのすべての種になっていた方です。その種は15歳で映画「草迷宮」のオーディションで出会ったときに植え付けられていて、寺山さんの呪いがかかっているものでした。僕は寺山さんから直接的に教わったことは何もないんです。でも植えられてしまった種からいろんな芽が出ているんですね。たとえば映像においては、フェデリコ・フェリーニやピエル・パオロ・パゾリーニといった巨匠に普通に会ったりするわけですけど、寺山さんから植えられた種からどんどん枝葉が伸びて彼らにつながった。じゃあ音楽だけは自分で枝葉を伸ばしてやろうと、寺山さんが知らないであろうジャンルにチャレンジしていったはずなのに、結局は今やライブで浅川マキさんの曲を歌ったりしている。そんなふうにどんなことにチャレンジしても、どこかで寺山修司や天井桟敷にたどり着いてしまうんです。親離れする、乗り越えていくと思っても、やっぱり影響のある人に辿り着いてしまう。結局はお釈迦様の手のひらの上なんですよ。寺山さんの呪縛は一生ついて回るんでしょうかね、嫌だな(笑)。だって不思議ですよね。
 僕は演劇だけは手を出さなかったんですよね。オファーはたくさんいただきましたが、かたくなに全部断ってきた。それは寺山さんに出会った「草迷宮」での体験が、その世界があまりにも強烈で、かっこよかったんですよね。そして僕の先生は天井桟敷の役者さんやスタッフさんだった。当時入院を繰り返していた寺山さんを病院に見舞いに行ったときにも、寺山さんの舞台があるんだったら出たいですと伝えたら、間髪入れずに「お前は映像には向いてるけど、舞台役者としては駄目だから」と言われたんです。子供ながら考えるわけですよね。映像と舞台ではどう違うんだろうと。その答えをずっと探しながら20代、30代を送っていたからこそ、僕は舞台は断っていた。でも40歳のとき、寺山さんの没後20年を記念して『青ひげ公の城』を残されたみんなでやると声がかかったんです。そのときも僕は「寺山さんにお前は舞台に向いてないからと言われているからやりません」と言いました。そうしたらみんなから「寺山さんは死んじゃったんからもういいんじゃない?」「その言葉はもう生きてないよ」と言われて舞台に立つことを決めました。そうしたら手応えがすごくって、映像よりも羽が生えたように自由になれるわけですよ。そこから宮本亜門さんに行き、蜷川幸雄さんに行き、演劇の旅が始まった。でも振り返れば結局は寺山さんに振り回されていた、呪縛だったわけです。

1月の舞台について


 この舞台は、寺山修司記念館で続けてきたライブ、一方で地方の民話や古事記を朗読してきた活動の流れにあると思っています。寺山さんの没後40年だから紀伊國屋ホールで何かやりませんかとお声がけいただいたところから始まりました。
 僕がハタチのときかな? 寺山さんが亡くなるころ、『レミング』という天井桟敷が最後の公演をしたのが紀伊國屋ホールです。それもあって僕の中では大事な思い出の場所であり、敷居が高い劇場でもあります。そのままお気楽にライブをやってしまうのもどうだろうと考えた結果、寺山さんということで僕ができることを考えるとやっぱり演劇なのかなと思ったんです。でもライブは外せない。その合わせ技で『三上博史 歌劇』ということになったんです。今はまだ構成を詰めている段階なので、何が出てくるかわかりません。ただ僕の中の要素を総動員してお届けするものになるのは間違いありません。そして懐古的になってしまうのもどうかと思う。何物にもとらわれない舞台になると思うんですよ。寺山さんのテキストで構成されることは決まっています。でもどんな舞台ですかと言われてもまだわからない。たぶん誰も見たことのないものを目指します。もしかしたら壮大な失敗になる可能性だってある。だから寺山さんのファンの皆さんにもできるだけ先入観なく見てもらえたらと思っているんですね。比較されたり分析されても仕方のないものなので、肌感覚でガツンと楽しんでもらえたらいいかなって。ビジュアル的には、僕が10代でかっこいいと思ったものは普遍なので、再現じゃなく新たな形で提示したいなと思います。当時の寺山さんの匂いみたいなものを知っているのは僕が最後の世代だと思うので、それを今やっておかないともったいない。それを伝えることはちょっとした使命だと思っています。
「私でさえ、私自身が作り出した一片の物語の主人公にすぎない」というサブタイトルは本当にいい言葉だと思いますね。『田園に死す』のセリフですけど、僕にピッタリだと思います。今まで僕はクイズ番組にもバラエティ番組にも出ないで、俳優として、一人の虚像として生きてきたので、その甲斐があった言葉だと感じました。

久しぶりにライブで歌うお気持ちは?


 東京で舞台に立つのは久々ですよね。これから新たなお付き合いが始まるといいなと思います。寺山修司というバトンを未来に繋げる? それは万有引力のシーザーさんの仕事ですからお任せして、僕は少し違うんですよね。バトンを渡すというよりは、バトンになれればとという感じですかね。それも違うかな? 僕が勝手に思っていることですが、僕の放浪癖こそが寺山さんの何かと共鳴したのではないかと思うんです。「草迷宮」のオーディションで出会ったときに、この子だったら想像の翼を生やせるかもしれない、翼になる種を植え付けてやろうかなと思ってもらえたのかもしれません。だからバトンじゃないんですよ。不思議だよね。人生のほとんどが寺山さんの呪縛のもとにあるってすごいね。今度の舞台は、寺山さんのテキストを使いながらも、ここらでちょっと自由になりたいなという挑戦でもあります。自由の翼を、お客さんと一緒にどんどん広げていきたいです。


(取材・文:今井浩一)